使節団が帰国し、征韓論を巡る明治六年の政変で西郷、司法卿江藤新平らが下野し、大久保利通政権が確立する。政変が収束し、11月には禄制改革の協議が再開され、最終処分までの過渡的措置として、家禄に対する税を賦課する家禄税の創設や、大隈重信の提案で家禄奉還制が討議される。岩倉や伊藤は慎重論を唱え、木戸らは反対するが、方針として決定され、12月には再討議を行い、太政官布告されるとともに、家禄を整理するために自主的な秩禄奉還者に対して秩禄公債を発行して禄高に対して公債を付与する政策を採った。
家禄税は、家禄のランクに応じて課税し、軍事資金として利用する事で士族の理解を得ようとした。家禄奉還制は、任意で家禄を返上したものに対して事業や帰農など就業のための資金を与えるもので、士族を実業に就かせて経済効率を図ろうとした。これらの政策は一般には受け入れられるが、禄税の使途や地域格差があるなかの一律施行に対する不満や、就業の失敗による混乱を危惧する意見も出る。
地租改正で農民の納税が金納化され、それに伴い家禄支給を石代として金禄で支給する府県も出現し、また米価の変動による混乱や不満も生じていた。政府は1875年9月7日の太政官布告138号において禄高の金禄化の切り替えを実施した。続いて大隈は太政大臣三条実美を説得して秩禄処分推進の合意を得て、木戸の反対を押し切る形で1876年8月5日の太政官布告108号において、禄制の全面的廃止と金禄公債切り替えのための金禄公債証書発行条例を公布した。これに基づいて秩禄を受けていた者の禄高は1875年の府県ごとの貢納石代相場に応じて換算金額(金禄元高)が定められてそれに応じた金禄公債の金額が定められて翌年から強制的に行われるようになった[1]。
地租改正による農民一揆と並び、神風連の乱や西南戦争(1877年)など明治初期の士族反乱は、秩禄処分により収入が激減した士族階級の不平が原因であった考えられているが、一方で士族反乱に参加した士族の大半は金禄公債証書発行以前から政府を批判しており、また決起の趣旨に秩禄処分が挙げられているケースが少ない事も指摘されている[2]。士族の救済政策として士族授産が行われ、屯田兵制度による北海道開発も実施された。
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だが、秩禄処分によって武士の生活が苦しくなったのもまた事実である。金禄公債の金利(下級武士に充てられた7分付き公債の場合)の日割額は当時の東京の労働者の最低賃金の1/3であったとされており、金禄公債を売って生活の足しにする人も少なくなかった。それは、1882年に鳥取県より出された全士族のうちの9割が既に金禄公債を売却してしまったという報告書に現れている。1883年の統計によると、全士族約41.8万人のうち現職官公吏(軍人含む)もしくは府県議会の選挙権を持つ有権者(地租5円以上で非官公吏)の合算が全体の37.6%であったという。逆に言えば全体の2/3が没落士族に相当すると言えるのであった。